第1回

ボルネオ島の白人王国

「サラワク」

★100年間続いた英国人ブルック家の所有した謎の王国(1841年~1941年)

サラワク。このボルネオ島の南西部にある地域は、19世紀半ば、イギリス人が個人的に所有するサラワク王国という国でした。激動の植民地時代に、インドに住む富裕英国人の御曹司として育ったジェームズ・ブルックは、父の逝去の後、相続した遺産を受け継ぎ、シンガポールの開港の父スタンフォード・ラッフルズ卿に憧れ、東洋へ向かいます。シンガポールに到着後、当時の英国シンガポール領事のボナムの進言により、サラワクの地域が未だ植民地の手が入っていない事を聞いたジェームズは、夢を含まらせ、サラワクのクチンへ向かいます。ブルネイの統治下のサラワクに、足を踏み入れたのは、1839年8月15日の事でした。

 その頃、クチンでは、新しく配置された総督への不信感から、現地の支配層のマレー人やビダユ族の叛乱が巻き起こっていました。ジェームズが訪れた際、その総督より相談され、叛乱を鎮圧させた暁には、領土の一部をくれるとの事。ジェームズは、最初は興味を示さなかったそうですが、その総督による懇願に承諾し、一度、シンガポールに戻り、体制を整え、1840年に再度クチンを訪れ、首謀者たちと会談し、叛乱を鎮圧しました。そして、1841年9月24日に、ジェームズ・ブルックは、サラワク王国のホワイト・ラジャ(白人王)として、国家を掌握したのでした。当初は、現クチン市近辺の小さな領土のみでした。

時を同じくして、クチンより北東部の地域は、イバン族の首狩りが横行している地域で、特定の占有権がない事もあって、ジェームズ率いる現地人を含む軍隊が、首狩りのイバン族を制圧する為の起点となる場所に、砦を築いて行きました。これが、領土の拡大となり、2代目のチャールズ・ブルック(ジェームスの甥)の旺盛期迄(20世紀初頭)には、現在のサラワクの領土迄拡大しました。この数々の砦は、サラワク州内の市や町に、現存し、中には、政府の機関として使われている場所もあります。

 この1841年~1941年間、ここサラワク州は、ホワイト・ラジャの君臨するサラワク王国として、栄えたのでした。1868年6月11日にジェームズが亡くなった後、同年8月3日に甥のチャールズ・ブルックが2代目を継承し、チャールズは、別名「白人の酋長」と呼ばれる程、ボルネオ島のサラワクの熱帯雨林と先住民族の文化を愛しました。その一つの現れが、チャールズが、長年掛けて計画し、1891年に建立した「サラワク博物館」です。今も、クチンの名所の一つとなっています。3代目は、1917年5月17日にチャールズの逝去後、同年5月24日、チャールズの息子ヴァイナー・ブルックが受け継ぎます。

 世界の近代化に遅れる事無く、サラワク王国もブルック家の主導による近代化が進んでいましたが、1941年8月に開催されたサラワク王国100周年記念の式典の中で、ヴァイナーは、今後、王国制度を撤廃し、サラワクの人々が政治を司るべく、立憲君主に変更する事を宣言します。その後、間もなく、選挙や議会が行われ、ヴァイナーは、休暇を取って、オーストラリアへ行きます。その不在中の1941年12月8日に第2次世界大戦の開戦となり、サラワク州のクチンにも、沿岸部より日本軍が12月16日に上陸し、24日日には日本軍占領下となりました。これが、実質のサラワク王国の幕切れとなったのでした。
1945年の終戦後は、オーストラリアの終戦処理を経て、ブルック家よりイギリスへの譲渡が行われ、1946年から1963年のマレーシアに加入する迄のこの短い期間だけが、イギリスの植民地でした。これが、一つ、サラワクの風土的にも、サラワクの人々の考え方的にも、他のマレーシアの地域と異なる理由だと思います。ブルック家は、サラワクを所有しましたが、一方で、サラワクの人々に何かを植え付けたのだと思います。今でも、サラワクの至る所で、ブルック家の残していった遺産が街の風景の至る所に見え隠れします。

実は、1950年代にハリウッドの映画会社が、ブルック家の類稀なストーリーを、映画化したいという企画があったそうですが、ブルック家の親族より、丁重に断わられたそうです。ブルック家の残していった歴史は、ジェームズの冒険話、首狩り制圧の際のイバン族との攻防(特にイバン族の英雄レンタップとの鬩ぎ合い)、そして、忘れていけないのは、チャールズに嫁ぐ為に、イギリスから来た、淑女マーガレット。女王マーガレット・ブルックは、芸術的な才能に恵まれ、その素養が、自身の書物などに残っています。と、あげるとキリが無いほどネタがあり、映画化されると間違いなく、大作になる筈の素材ですが、私個人の考えでは、映画化されない事は、正解なのではと。壮大なる浪漫や冒険の歴史が、スクリーンに閉じ込められる事無く、サラワクの人々の心の片隅の中に、永遠に残り、語り継がれていき、そして、運良くこのサラワクを訪れる機会に巡り会えた人々は、その街に刻まれた浪漫を、個々人の国の歴史と照らし合わせる事によって、ブルック家と「サラワク王国」は、永久の浪漫を持ちえるのでは、と。そんな特別な場所のサラワクで生活出来る優雅さを、クチンのウォーターフロントで夕陽を眺めると、いつも、思い出させてくれる。

「一国の王であるってことは全く愚劣そのものさ。しかし一つの王国をこさえるってこと、こいつは別物だ」(アンドレ・マルロオ「王道」)

 ***サラワク王国の事をもっとお知りになられたい方は、「ボルネオの白きラジャ/ジェームズ・ブルックの生涯」(三浦暁子著 / NTT出版)をお読み下さい。数少ないサラワク王国に関する日本語の著書です。ジェームズ・ブルックの生い立ちから、ボルネオ島でホワイト・ラジャ(白人王)になるまでの経緯、サラワク王国時代の様々な出来事、そして、イギリスで彼の人生の幕を閉じる迄、一つの王国を作った英国人の稀有な人生が事細かに描かれています。 「ボルネオの白きラジャ/ジェームズ・ブルックの生涯」三浦暁子著(NTT出版)

~~~~~ドリ鍋 (2006年12月10日)


PS. 第1回目は、サラワクの背景を知って頂く為のものですので、非常に固いものになってしまいました。次回以降は、ガンガン飛ばしていきます。

GALLERY

ドリ鍋の四方山話

ボルネオ島サラワク州

第1回 ボルネオ島の白人王国「サラワク」(2006年12月10日) 
・・・100年間続いた英国人ブルック家の所有した謎の王国(1841年~1941年)
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・・・「ドリアンを食べる為だけでも、ボルネオ島に来る価値がある」 (アルフレッド・ウォーレス)
第3回 謎の病気(?)「ラタ」 (2006年12月21日)
・・・パイナップルボンバー洋平のトラウマを起こした病気に迫る  
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