ボルネオ島からの誘い

関係者の詳細

ポメロ和枝(別名:社長)19XX 年1月29日徳島県生まれ 

サラワク州に住み続けて、40年余り。若かりし頃を振り返って、「若いって怖い」と言わしめた大胆な行動で、ボルネオ島サラワク州へ移住して、最初は、右も左も分からず、マレー語も現地の小学校に通って学んだ。日本食のレストラン「ききょう亭」の経営(今は引退)に始まり、現在は、旅行業や会員制社交カラオケ・クラブ等を経営し、サラワクの日本人女性実業家として名高く、サラワク州の政財界や経済界の 大物と親交が深い。「笑う門には福来る」が、座右の銘。

パイナップルボンバー洋平 1976年6月18日山形県生まれ

某有名国立大学K大学卒業後、ドキュメンタリーの映像製作会社に入り、ディレクターとして活躍。数々のテレビ番組を制作したが、2005年に、奮起転換し、ボルネオ島へ移住する事を決意。ボルネオ島の熱帯雨林の大自然や先住民族等の文化をテーマに、自然写真家を目指すべく、奮闘中。幻のヤマネコ「ボルネオ・ヤマネコ」と、サラワクでは絶滅しているかもしれないと言われる「スマトラ・サイ」を、撮影するまでは、帰国できないと決意している。生態系を語る上で、最も重要な熱帯雨林の林冠にて写真を撮る事を計画して、現在、木登り特訓中。乞うご期待。「ふはい人生」が座右の銘。2007年に、日本に帰国済み。ハリナシバチの蜂蜜やウツボカズラの筆箱などを、絶賛発売中。詳しくは、通信販売の珍宝堂まで。

ドリ鍋  1968年12月26日福岡県生まれ

某私立大学W大学卒業後、映像の製作会社勤務。1996年、ボルネオ島の取材先で出会った人々と自然に魅せられて、ボルネオ島に移住後、旅行業に従事。サラワク州の先住民族の生活の中に見出される「人間の知恵と力」を痛感しながら、日々、暮らしている。転覆隊ボルネオ支部長「ドリアン鍋嶋」を任命されるが、未だ、これと言った活動は、行っていない。自称、ドリアン推進委員会クチン支部長として、ドリアンの地位と名誉の向上の為に活動中。「一期一会」が座右の銘。「ドリアンは、人の心と同じ様に、同じ一つの果実の中でも、いろんな味と風味の果肉がある」が持論。

なんかアレックス (本名:テン・イン・シオン) 1969年6月15日シブラン村生まれ

日本の鹿児島で、木材技術研修の為に、2年間滞在。流暢な日本語を操るが、その他に、客家語、福建語、福州語、北京語、広東語、英語、マレーシア語を、自由自在に操る。バスケットボールのサラワク州代表の元選手で、今も、レフリーやコーチとして、バスケット・ボールに関わりながら、青少年の健全な育成に貢献する。日本人観光客の中では、クチンの「ヨン様」と呼ぶ人もいるが、残念ながら、本人は、「ヨン様」は何かを分かっていない。現在、サラワク州ガイド委員会の副委員長を務める。

小麦粉ユディ (本名:ユディ) 1977年9月14日サラワク州サントボン村生まれ

マレー人漁師の子供として生まれ、勤勉な性格から、日本へ技術研修に行く事が出来、そこで、日本語とフォークリフトを学ぶ。KIROROの「未来へ」が、好きな曲で、いつも、「ほーら、足元を・・・」と口ずさんでいる。その他、尾崎豊、長渕剛などが、好き。今も、週末を利用して、漁業を副業にしている。日本から帰国後、日本語をあまり使わなかった為、言葉の順列が逆の事もあり、「船の魚」等と意味不明の事を言う事もあるが、根が真面目なので、許される。「船の魚」とは、魚をとる船の事でした。それ以外に、「人の森」と言うのもありました。ご想像下さい。ヒントは、ボルネオ島にいる希少動物です(??)。

HONEY deux 美里  (特別参加) 1980年1月11日生まれ

突如、サラワク音楽界に現れた日本人オペラ歌手。その美声で、サラワクの声楽・クラシック音楽の巨匠たちを虜にし、旋風を巻き起こした。現在、マレーシア大学サラワク校にて、声楽の教鞭をとっている。 その他、オペラの主役や、音楽祭などに立て続けに出演中。サラワクに来て、一番最初のオペラのオーディションの時、大学の先生と自分を紹介したのだが、他の参加者は、生徒の間違えでないかと笑った。しかし、第一声を発した瞬間、他の参加者は戦慄を覚え、その場の時間を止めたかのようだった。スイス留学で鍛えられた美声は、その当時、ボルネオ島の熱帯雨林に響きわたってたが、今では、レジェンドとなっている。日本に帰国済み。

番長かたやま(押忍) 1985年1月7日埼玉県生まれ

野生動物専門学校時代に、クチンに研修旅行のバコ国立公園で、カニクイザルの個体調査をしている時に、ドリ鍋にあだ名を付けられて以来、未だに、番長と呼ばれている、ガハハハと笑わなければ、素敵な女性。学校で飼っているカワウソのウーちゃんを手なづけるのに、姑息にも、食べ物で釣って、動物を糖尿病にした経緯がある。 Sir ラッフルズ・アーノルディ 伊藤にけしかけられて、クチンに押しかけ、ポメロの旅行会社で、一時働いていてた事がある。棲家から、事務所へ自転車で通っていたが、犬がたむろする場所を通らなければならず、毎日、犬に吼えられ、犬の大群に追い掛けられる日々が続いたが、その内、手なづけて、毎日、番長の帰りを待つ忠犬ハチ公(複数)となり、日本に帰国後も、その犬たちは、今も、夕方になると、そこで、ここにいない番長を待つ犬達がいる。押忍。日本に帰国済。

あごんV・ミヤビ小澤  1988年4月11日茨城県生まれ

クチンの唯一の国立大学UNIMAS(マレーシアサラワク大学)の環境学を学ぶ大学院生時代に、クラスの30人の内に、男性が4人と言う環境から、もてまくり状態。朝、昼、晩、(レディース)ナイトに、ミッドナイトに、午前様、爽やかに、忙しく、弾んでいます(学業は、ばっちりこなしています)。ポメロに見出されて、なぜか、ポメロの旅行会社で、薄給で、働かせられる破目に。なぜか、新人運転手の元DJボビーに、マブダチ扱いされ、毎朝、挨拶代わりに、拳を付き合わせる破目に。ポメロに会う前の1年間は、詳細不明。きっと、ブイブイブイだったと思われるが、1年間の間に培った経験のいくつかが(継続中も含め)、実は、非常に危険な行いであることが、他の会員との会話から判明し、後一歩で、タンカップ・バサー(イスラム法)になっていた事もあり、今後、どのような話が出てくるか楽しみな逸材。暗闇に気を付けろ( Paint It Black ! ) 2015年帰国済み。

サンバ・ヒカルル横山   (ex インターン) 1995年5月27日東京都生まれ

某スパ養成国立大学をそろそろ卒業(2018年当時)。2017年にポメロの会社で6ヶ月のインターン研修。仕事よりも、ほぼ98%の時間を、サペ(サラワクの伝統楽器)に費やし、結果、Myサペを、フランス人のサペの製作者に頼んで、2台も大枚叩いて購入後、あっという間に、日本一のサペ演奏者に。その後、人生最後の長期の夏休みをサペを自ら製作して(それも2本)、サペに関しては、左に出るものはいない。クチン滞在中は、肉骨茶(それも、ドライ・バージョン)にはまる。大好物は、擂茶(中国客家の健康食)と、クエティアオ・ゴレン・トマトソース。二度と食わないと言っていた。大手優良企業に就職が内定しているので、顔出しNG。

Sir ラッフルズ・アーノルディ 伊藤   (友情参加) 19XX年12月13日ブラジル国愛知県生まれ

時々、クチンに滞在する、本職は、映像カメラマン。ドリアン好きで、1日、RM 400も使った経験があり、ドリ鍋を、いろんな意味で脅かす存在。クチン近郊の温泉に連れて行くと、元気が出る還暦過ぎのラフレシアの蕾。謎の夜行性動物ヒヨケザルをはじめ、シャチや、ゴリラや、野生動物の撮影を得意とする。動物達との会話が出来る、南米好きな(いろんな意味で)、だけど、なぜか、ボルネオ島のクチンに時々ロングステイする、ドリ鍋が唯一適わない会員番号CACAJAO22。 2014年7月頃、たまたま居合わせた、宝塚市役所にて、放火事件が起こり、職業柄、その火事の映像を撮った事から、一時的に、一躍有名に。テレビに、新聞に、引っ張りだこ。いつも帽子に隠された、ご自分の頭を「ラフレシアの蕾」(まさにそのような)と見せびらかせ、人々に愛される為、ラフレシアを最初に発見した、シンガポール開港の父のラッフルズ卿と、その侍医であるアーノルディの名前を冠に付ける。その最初に登録されたラフレシアは、学名では、Rafflesia Arnoldii と呼ばれる。その他に、東南アジアに15種類ほどあるそうだ。2018年、地球のどこかで健在中(だと思う)。

 

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